妙な夢を見た。
夢だったのか、現だったのか。
目を開けると、バス停のベンチで横臥してしまったらしい。店は閉まっていた。
硬いベンチの上で何時間も横たわらせたせいで、硬くなった体を起こして帰るべきとこへと足を進める。
玄関に足を入れた途端、懐かしい匂いがした。正確には、蚊取り線香の匂いだ。かつては渦巻き状だった線香の終着点で静かに立ち昇る一筋の煙の元には、今に消えそうな朱色の火が燻っている。その下には灰がまばらに落ちていた。
眠る前に点けたということだろうか。同棲当初は火の用心だとか、何事にも几帳面だった恋人が幻みたいに思われた。まるで、私たちの今の関係を露わにしているようで思わず苦笑いする。
何足ものの靴で雑然とした玄関の床に、自身の靴も脱ぎ捨てて、そいつらの仲間入りを果たさせる。薄暗いリビングに向かって「ただいま」と声を潜めて言ってからドアを開く。年季の入った扇風機がゆっくりと首を振りながら微々たる風を送っていた。
恋人は、ダブルベッドを独り占めするように大の字になって眠っていた。枕やら夏掛けやらが床に落ちている。アイマスクまで着けている彼女からのメッセージはこうだ。「間違っても寝込みを襲うな、絶対にだ、起こさずに大人しくしてろ」と。
台所の電気を点ける。アイマスクしてるなら、これぐらいの電気なら、睡眠の邪魔することはないだろう。
冷凍したご飯をチンし、インスタントタイプの味噌汁をおかずに一人で食事する。蛍光灯の光が寒々しく感じた。
味気ない白飯を咀嚼しながら昨晩の出来事を追憶する。
長濱理佐が決意して言った黒い真っ直ぐな瞳は、かつて告白してきた長濱ねるの瞳を思い出させた。猛火のような熱さ、もしくは、星空のような耀さ––––。
恋人が身体を起こしたことによって、現実に引き戻された。
「あ、戻ったんだ」
目を擦りながら訊いてきた。私は微かな期待を込めて答えた。
「ちょっと寄り道してて、奇妙な店にね」
「へぇ」
莉香は全く興味を示さずに、颯爽と風呂場へ向かった。他人行儀である。私は朝食に向き直ってご飯を口に運び始めた。
莉香は私の靴を遠慮なく踏み潰しながら、自身の靴を履いた。私は、誰の靴も踏まずにビーチサンダルを履いて玄関を出た。相変わらず蚊取り線香の匂いで満ちていた。
夕飯を買いにスーパーへ向かう。カップルとはきっと間違われることのない距離で歩いた。
莉香は、私と別れたがっている。きっと親から散々言われているのだろう。彼女自身も、そろそろ身を固めなきゃと思っている。堅実派の彼女は、私に隠れて浮気……はしてないが、お見合いをしている。手入れを欠かせない茶髪の理由がそれだ。
私はいつだってロマンを信じ続けていた。しかし、現実主義者の彼女は既に別の人生を歩もうとしている。
例の店が目に入った。何故かわからないけど、愛おしいものとなって胸に迫った。
「ブランチって、料理って意味だよね?」
「多分そうじゃない?」
尾関はどうでもよさそうに答えた。
終わった恋だ。ねるは皆のスター、私はしがないデザイナー。完全に手の届かない人となってしまった。
もしも、ねるの告白を受け入れたら––––。
想い出はかくも甘きものだ。
執着が莉香を、私を、苦しませていた。手放さなきゃいけない時がきている。寂しいけれど、恐れず手放そう。新しい世界が私を待っている。
別れとは、人生は自分の思う通りにならないという教えのひとつなのかもしれない。私はこの先も後悔するだろう。だからこそ、頑張れるのだ。
新しい道に進むだけだ。私は胸を張って、前を向いて進もう。
––––よし。家に帰ったら整理整頓に取り掛かろう。おっと、別に恋人に惚れ直してもらおうとかそういう画策ではない。引越ししやすくするようにという私なりの餞別さ。まずは、玄関で燃え尽きてるであろう蚊取り線香を掃除することから始めなきゃ。
店から生えている欅の木の枝が心地よさそうに揺れているように見えた。
これはSFではない。
空想ではないかもしれない。事実かもしれないからだ。
私のSFな物語はこれでおしまい。
Life isn’t about finding yourself.
Life is about creating yourself.
-by George Bernard Shaw
「人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである。」
––––ジョージ・バーナード・ショー
なかなかの奇抜な設定のお話で楽しく、そして最後は前向きな話して面白かったです。
さくらん坊さんのお話は、実は思い出しては読み返しています。
既に恋人同士なんだけど、片方の勝手?な気になりごとからお話し、最高です。
また期待しちゃいますが、こっそりと応援しています。
>ひぃ さま
ありがとうございます。
実は当初の構成としてはバッドエンドだったんですよね。
尾関理佐になって「こんなはずじゃなかった!」的な・・・
でも前向きに終わりたいのでこのような終わりに締めさせていただきました。
リピートしてくださってるということかな?お恥ずかしいですが、嬉しいです照
期待に応えられるよう、頑張りますね!