ひらがなけやきが居なくなり、広いスタジオにはねる一人がダンスの練習に励んでいた。あ、と我知らず立ち止まった私に、ねるはいつものように和やかな微笑を向けた。
「てち」
ねるの仕事熱心なところを誇らしく思う反面、少し恨めしく思ってしまった自分に嫌悪する。
「ちょっと気分転換に来ただけだから、無視して続けていいよ」
と、ぶっきらぼうに答える。決して逢瀬を楽しむためにやってきたわけではない。やっぱり、あの夏の一日は認めたくないと私の中で未練たらしく渦巻いていた。ふれなばなおちんな女とやすやすと一線を超えてしまったという事実。男としてか、女としてか、どっちともつかないプライドがそれを許さなかった。
ねるは仲間としては大事な存在だ。しかし、女としてはなんでか拒絶したい思いだった。
ねるとはバリヤーを張るつもりで距離を置いて、後ろの壁に背をついて座る。スタジオ内はさきまで踊っていた少女たちの熱気がまだ籠っていた。
臍を噛む思いでねるの後ろ姿を睨んだわけだが、ややぽちゃっとしている体格のせいかピッタリとフィットしたトラックパンツに下着のパンツラインが浮き出ているのに気付いてしまった。思春期の童貞男子みたく目を逸らす。
「なんか思い悩んどーと?」
やはりねるは聡い人間だ。思わず苦笑いして、頭をかきながら観念したように頷くと、彼女は鏡に向けたまま無邪気に笑った。私はこの、笑うと目がなくなる顔が好きだ。
「てち、みじょかやね~」
長崎弁だか、五島弁だか、よくわからないが。彼女の方言はあざと可愛い。最初こそは必死に標準語で話しかけていたのが最近は気を許しているからか、方言で話してくれるようになった。良い進展だと思う。
(……みじょかって、なんだ?)
すっかり有名人になった今、早朝マラソンはできなくなったが、このようにして心を通わせる時間が私は何よりも好きだった。ようやく人心地がついた私はねるの後ろ姿に向けて、思いの丈を話した。
自分を変えたくて、欅坂に入った。よけい自分を見失った気がする。
変わらなきゃ、と思う反面。本気で変わりたいと思っていない私もいた。私が変わらなきゃいけないのだろうか。そもそも変わる必要があるのか。
私は。私は。私は––––。
くるり、とターン際に私にウインクを投げた。
「まぁ変わらんで欲しかと思うのは私のお姉ちゃん目線というか、勝手な望みなんだけどね」
ねるはまた鏡に向き直ったまま、ダンスの振り確認を続ける。
「てちは、てちらしくでいいと思う」
それが例え、その場しのぎの慰みとしてだとしても、私自身を肯定してくれたようで嬉しくなる。
君は君らしく 生きていく必要があるんだ––––
不意に「サイレントマジョリティー」のフレーズが浮かんだ。大人たちが作り上げた世界に疑問を投げかけるような曲のセンターとして歌っている私が、大人に支配されているような心地がしてならなく、自分らしさを徐々と見失っていくかもしれない恐怖に頭を悩ませているなんて皮肉なものだな、と自嘲する。
「ねるはさ「変わらないと」とかそういうの思ったこと……あるよね?」
鏡に映るねるの表情は、力なく笑っていた。
「私は途中加入した感ばどうしても拭えなくって変わろうとしたばってん、〝過去〟はどうしても変えられんばい」
だけん、と続けて言った。「過去ば未来のためにどう使うか、って考えるようにした」と。
「まあこれは実は悩んどー当時、精神安定剤代わりに読みまくった啓発本の中に書いてあったことなんやけどね」
頭を軽く叩くようにしてえへへ、と笑った。
「悩むよ、本当に悩む。死ぬんじゃないかってくらい悩む。でもね、時間は有限だし。特にアイドルはね。ならいっその事、負い目をハングリー精神に変えて遅れた分、二倍も三倍も思い切らなきゃって」
晴れやかな表情で、しかし真剣な眼差しでねるは言った。
「だってほら、ひらがなもできたし。いつまでも情けなかこと言うてられんよね」
「ねるはすごい、たくましいよ。ポジティブでさ……」
実際の私は小胆で、常にセンターの重圧と戦っている。ねるは「いっちょんたくましくなかと。泣き虫やし」と返した。それから、ダンスをやめて真剣な顔で言う。
「アイドルはさ、とても短かいんだよ、儚いんだよ」
ねるはどちらかというと、アイドルの伝統意識が強く根付いている人だった。欅坂に加入する前は乃木坂のファンをやっていたという話も聞いた。そんな彼女のアイドル文化価値観から、あまりにも常識すぎる事実を突きつけられた私は思わず恋人と欅坂の将来について語り合った在りし日のことを思い出していた。
梨加は喜んで大はしゃぎした。
「いいね、そうしようよ!」
「でしょ! 最近そう思う」
「卒業しなくていいよ、誰も。で、40歳くらいまで、みんなでやろうよ」
「活動年数の平均は3年」
ねるは指を折りながら喋る。3本折ったところで、天を向いて言った。
「日数にすると、1095日」
3桁の数字を提示されても、あまり実感は湧かなかった。1000日という数字を慎重に捉えるには若すぎたかもしれなかった。
「3ヶ月したら残りが1000日になっちゃうんだよ。私は、もうほぼ1年になるから残るは750日くらいかな」
分かり易い説明のおかげで、途端に恐ろしくなってしまった。恐ろしかったのは残りのカウントダウンよりも、ある一点にあった。
ねるは3年したらキッパリと欅坂を去るつもりなのだろうか––––。
彼女が言いたいことはそういうことじゃないんだとわかってはいても、急に心に侘しいものが迫った。
「やけん10年後の私が振り返って『アイドルばりきつかばってん、やってよかったと』って思いたいなぁって。そのために今、目ん前んことを行動する感じ」
3年という期間を人生に換算すると、アイドルとは人生のほんの一部にすぎないということになる。謂わば、青春の1ページのようなものだ。一瞬で過ぎ去る青春を全力で駆け抜けるからこそ、青春の思い出が私の血となり肉となり、これからの人生を支えていく心の糧になるのだ。
私は絶対に皆を、20人の仲間たちを忘れない。
「てちすごかけん、うったちは頼ってしまう。ごめんね」
申し訳なさそうな顔を向ける。その顔が、次には真っ直ぐなものとなって。
「ばってん、うち、負けん」
いつもなら抱きついてくるところを今日はその気配がない。私がそういう気分じゃないのを感じ取ってくれているのだろう。そういう距離の取り方が巧みなところもまた、多くの人たちに好かれる要因の一つなのだろうな、と私は思う。