別に今更、2人ともセックスまでしているんだからキスぐらいでショックなんか、と思っていたのにまだショック受けている自分がいた。
完全に気力を失い、今日は早く上がろうと洗面台に向かってコンタクトレンズを外す。鏡を見ると、目が充血していた。
(最近、泣いてばっかりだなあ自分)
力なくとぼとぼ歩いていると、ぼやけた視界の中で、ジャージを頭から被るように羽織っている人がソファに腰掛けているのを、おぼろげながら見えた。羽織っているその白いジャージには見覚えがあった。由依だ。
今朝のやりとりが蘇る。
なにがあったら、私に頼って。なんでも、全部聞くよ––––
私は自然と彼女の方へ歩み寄っていた。
「ねぇ、由依。ちょっと聞いて欲しいことがあるの。真面目な話なんだけど」
背もたれに腰を掛け、由依に背ける形で話し始めた。彼女なら聞いてくれるし、口は固いだろうし、きっと笑わないはず。
「あのね、私ね、失恋しちゃった」
ピコピコ、とゲームのボタンの効果音が聞こえた。
(スマホゲーム好きなんだっけ。ゲームの途中にごめんね)
「笑えるよね。 勝手に中学生に恋して、勝手に両思いだと思い込んで、勝手に失恋して」
話しているうちにまた、涙が溢れ出してくる。返答はなかった。どうやら黙って聞いてくれてるみたい。
「てっこが、渡辺と付き合っているのを祝福できない自分が嫌……」
「へぇ、ぽてちに恋してたんだ」
予想外の声に涙が引っ込んだ。この声は由依ではない、苦手なあの人の声。慌てて振り返ると、DSをピコピコいわせてゲームに勤しんでいる、由依のジャージでは隠しきれていない大きな背中が見え隠れしていた。声の主がようやく私の方を振り返ると、ポーカーフェイスの顔が現れた。
「ゆいぽんで~す。ぽん!」
志田はそうおちゃらけると、またゲームに向き戻った。「っしゃ! ガーディげっつ」とか訳の分からないことを言っている。
人違いとはいえ、私の突然の告白でも冷静でいられるのがなんとも悔しい。理佐とセックスライフを満喫してるらしい彼女にとって、ピュアな恋愛模様はきっとどうでもいいことなのだろう。なによりも、一番聞かれてはいけない最悪の人に聞かれてしまったという、自分の失態に腹立てるばかりだ。
「い、言わないでよ……!」
非常にまずい事態が起きてしまった。彼女のことだろうからスクープネタと言わんばかりに仲のいい理佐や織田にバラして、そのまま欅坂46のメンバー全員に広めていくだろう。間もないうちに、渡辺にも耳に入るだろう。女グループほど、面倒臭くて煩わしいコミュニティはない。
懇願するように言うと、彼女は「はぁ?」と間抜けな顔を私に向けた。なんだか、からかわれてる気がして余計苛立った。
「言わねーよ」
「前科あるじゃん!」
思わず、長濱ねるの加入の流出の件を暗に指しているようなことを口走ってしまう。
(あっ、ヤバッ!)
手で口を覆ったが時すでに遅しで、志田は機嫌を損ねたらしく、ポーカーフェイスの眉間に皺が寄せられる。
「あっ?」
美人だけど寄りがたい雰囲気を持っている彼女は、睨むだけでも相当のオーラを放っていた。
(べ、別に怖くなんかないし。というか、アイドルのくせに睨むとかなんなの? やんのか、このDQNやろう!)
ぐっと握り拳を作っている私を他所に、志田は自分の首をこすりながら「まあ、いいけどさ」と呟くように、ゲームに視線を戻しながら続けた。
「ぽてちに恋かぁ。道理で、あの時泣いてたわけだ」
あの時とは、もしかして楽屋の時だろうか。
「すげえ涙目だった」
「ち、違う!」
弁明しようにも、志田はゲームに夢中なのか、全く聞く耳を持ってくれない。ゲーム画面では主人公が草むらの中をひきりなしに走り回るという謎の行動を繰り返している。
「ぺーもさぁ」
志田はひとつため息をつくと、冷淡な調子で愚痴をこぼし始めた。
「毎晩ほんとうるせぇんだよな。壁薄いんだから、こっちの身にもなれって感じ」
「ちょっ……」
(傷に塩を塗るようなこと言わないでよ、ほんとデリカシーのない人! 最悪! 馬鹿!)
「猿かよ」
(あんたも人のこと言えないじゃん!)
そう言う志田は「あ、マンキー出てきた」と、また訳のわからないことを言い出している。あくまでマイペースに、自分だけの世界に入っている志田の背中を前に、私はなんだか腹が立ってきた。
なぜ私が、平手にも志田にも振り回されなければならないのか––––。
「別に、てっこが誰かとくっついてようがどうでもいいよ。私には夢があるし!」
私はやや感情的な声で弁明した。自分に言い聞かせるようでもあった。
志田はバッグからゴソゴソいわせて、何かを取っては口でかじりつき出している。
「私は皆とは違……んぐっ!」
私が言いたいことを言い終える前に、ズボッと口に柔らかい棒のようなものが突っ込まれた。
志田がとった突然の謎行動に、私は得体の知れない棒を咥えたまま、数秒ぐらい固まるばかり。眉間に皺を寄せながら口の方へ目を凝らして見る。ピントがなかなか合わずぼやけているが、オレンジ色の棒らしきものが見えた。
「ん、ふぁひほへ?」
「魚肉ソーセージ」
ぽん、と頭に大きな手が置かれた。手は冷たかった。
「それでも食べて元気出しなよ」
(変なものでも入ってるんじゃないだろうね!?)
「フロント、マジで自信ないから色々教えてよ」
志田は猫のように微笑むと、DSとバッグを持って「じゃあ」と言い、どこかへ行った。小さくなっていく志田の背中にあかんべを送ってから、魚肉ソーセージを口に運ぶ。初めて食べる魚肉ソーセージは悔しいけど、とても美味しかった。
「美味しい……」
今年の夏は最悪な幕開けとなった。多分。