カレンダーの8月の紙が破られても、まだ暑い気候が続いた。
9月22日、京都みやこめっせで開催された握手会。
私の意識はある一点に向けていた。長濱ねる、彼女だ––––。
ねるは想像通り、いや、それ以上にいつもと変わらない様子でいた。それがかえって私をやきもきとさせた。頭を抱えて自分を叱責する。
(なにやってんだよ、平手。それじゃ、ねるの思う壺じゃん)
ねるはメンバーにも、マネージャーにも、スタッフにも軽々しくボディタッチする。
仮に恋人持ちの人に手を出すような、軽薄な貞操観念の持ち主だ。彼女はそういう子だ。しかし。
自分の奥で骨が引っかかったように、すっきりとしない部分があった。
私に手を出したのは好奇心からなのか。それとも、単なる気まぐれなのだろうか。それとも––––。
(もう考えるのやめようよ、平手。アンタには梨加ちゃんが––––)
「ねぇ、聞いてる?」
慌てて顔を上げると、フタナリ仲間の理佐の呆れ顔があった。彼女はため息をつくと、今日の流れや注意事項について再度説明してくれた。今日の私は、ひどく集中が散漫していた。反省しようにも、ねるへの思惑が邪魔をする。
握手会でも対面する人以外の者に悩まされたまま仕事を終えた。
宿泊先のホテル、我々が泊まるフロアのロビーにて。
メンバーたちが子供のように目を爛々とさせて待ち構えている。握手会やコンサートなどの遠征での醍醐味と言ったら、ホテルの部屋の割り当てだ。
次々とペアと部屋の番号がスタッフの口から告げられていく中、私は心の隅で祈っていた。
「渡辺梨加さんは、織田奈那さんと」
一組の発表がされると、皆の気遣ったような視線が私に集中する。
「だに、手出すなよー」
斎藤が小声で茶化す。
「おい! いやいや、わかってますわかってます。そんなこと言われなくても手出しませんから!」
織田は笑いつつも、手を仰々しく横に振りながら早口でまくしたてて、必死に否定している。
「平手友梨奈さんは––––」
私の名前にぴくり、と反応する。
「長濱ねるさんとお願いします」
––––まさかの、祈りが叶ってしまった。
マネージャーの話によると、ホテルが京料理を用意してくれるまでは自由行動とのことだった。ただし、ホテル内という条件付きで。これにメンバーたちは悲鳴に近い歓声を上げた。彼女たちは必要な物だけ持って騒々しくエレベーターに駆け込み、まもなく満員となった。
フロアに残されたのは私と、あぶれたメンバーと、ねるだった。
恋人の梨加ちゃんも仲良しの長沢と一緒に出ていったようだ。私を置いて。皆の前での恋人の態度にいい加減慣れてきた私は、癖のように心の中でため息をついた。
(はぁ、ったく)
無人のエレベーターが戻って開くと、私は独り言のように言った。
「なんか買ってくる」
残りのメンバーと一緒にエレベーターに乗る。そこには、ねるはいなかった。ほっ、と安堵する。
1階に着き、皆が散らばっていく中、私一人で売店の商品を吟味している時だった。視線を感じた。
振り向くと、ねるがいた。彼女は垂れた目をなくして「来ちゃった!」と笑った。
私は適当に返事すると彼女を気にするそぶりを見せずに、素通りしようとしたら––––手が握られた。
おそるおそる顔を向けると、彼女はあざとく首を傾げている。目はどこか笑っておらず、感情が読み取れないのがおそろしかった。
それは、無言の同意を意味していたと気づく頃には手を引かれ、エレベーターの方へ向かいだした。
エレベーターの前に止まって、彼女は私の手を離さないまま上のボタンを押す。
(おい、平手。行くのやめろよ)
私は口には出せなかったが、自分の情けなさを嘆きたかった。
(なぁ、平手よ。このままねるに着いて行ったら、何が起きるか分からないんだぞ)
どうして、行くの止めようとしなかったのかは、自分でも分からない。このままだと本当に後悔するということは分かっていた。
(平手、平手、平手––––!)
そうこうしているうちに、エレベーターが到着して、扉が開いた。中からはスタッフたちが出てきて「仲良しだね」と微笑ましそうに言われた。
今、ここでねるの腕を振り払うべきなのか、と優柔不断にも逡巡していた。
「振り払うべきだよ!」
私の心の利口な自分が言う。
「なに、ソノ気になってるわけ?」
悪い自分がそそのかす。
「そんな訳ないだろ。私には梨加ちゃんがいる」
「ついて行ってもいいんじゃない? するとは決まってないし」
自問自答を繰り返しながら答えが出ないままエレベーターの扉が開き、手を引かれていく。
「待って」
私は部屋の前になってやっとの思いで止めた。ねるは少し驚いたのか、口を半開きにして振り返った。
呼び止めたにもかかわらず、様々な感情がぐるぐると渦を巻いて、言葉が出なくなってしまった。ねるは頰をプクと膨らましながら、私の言葉を待っていた。
私は混沌とした感情の中で、ひとつ浮かんだ言葉を無意識に口走っていた。
「窓は、閉めよう––––」