のぞき!ふぉ。

 扉を開けると、部屋にはせるような交尾後の媚臭びしゅうが充満していた。しばらくして、ほうけた顔で出てきたこいつの頰を––––。

パアンッ。

 思いっきりった。
 ビンタで済んだだけでも、充分優しい。綺麗な顔を変形させるくらい殴打しても、罪に問われないだろう。それくらいの酷いことを、こいつはした。
 許せない。私が平手に想いを寄せているのを知った上で、拷問を強いるなんて。瘡蓋かさぶたがすどころか、新たな傷を付けた。私の心は、重体だった。
 私の中で彼女に対する感情が「苦手」から「大嫌い」へとなりゆく。

 一途でピュアだと期待していた平手に裏切られ、本当は優しいと期待していた志田にも裏切られ。
 もう、まっぴらだった。

(なんで、私ばかりが嫌な思いをしなきゃいけないの!)

「……っ!」

 最初は痛みに顔を歪ませていた。しかし、次に出てきた言葉は。

「さすが、握力7」

 皮肉めいた口調で言ってきた。信じられない。

「やっぱり……大っ嫌い!」

 私はこいつに返事するタイミングも与えずに、早口でまくしたてる。

「そんなに、そんなに……人を、私を苦しませるのが、楽しい!? 満足した!?」

 志田は何も言わずに目を伏せた。急に大人しくなっちゃって。それでも、私は口撃するのを止めない。

「私の恋を、邪魔しないでッ!」

 志田の伏せがちだった目が鋭くなって、私をめつけてきた。有無うむを言わせない凄みに少し怯んでしまう。

「それ、マジで言ってる?」

「どういう意味––––」

「晴れて付き合えたとしても、2番目か3番目っしょ。どうせ」

 こいつは、欲しい言葉を、優しい言葉を、かけてくれない。以前にこいつが、自分は嘘をつけない性格だと話していたように、本当にはっきりと言う。

「分からないじゃん!」

「何がわかんねえの?」

 志田はうんざりしたように訊く。

「今は、お互い寄り道しているだけで、本当は繋がってい……」

「寒っ。ほんとそういうの寒い」

 思いの丈を伝えようとしたところで遮られた。気怠そう返ってきた思いやりのない言葉が、とげのように胸に刺さる。

(どうして……傷に塩を塗るようなことを言うの? 優しくできないの?)

 わからなかった。

「ドライな志田にはわかんないかもしれないけど! 運命って、ある、と思う……」

 最後の方は自信を無くしてしまって、尻すぼみになってしまう。実際、あんな生々しい浮気現場を目撃した後で「運命」だなんて、ロマンチックな言葉が出るわけがない。

 私と平手とは赤い糸で結ばれているのだと本気で信じていた。でも、平手の手指に結ばれているのは––––一本だけとは限らないかもしれなかった。
 森で迷子になって霧が立ち込めてきたような、言い知れない不安を覚える。

「運命、とか。ああ~鳥肌……」

 私がどれだけ真剣に話したとしても、こいつはふざけたように腕をさすっている。駄目だ、こいつとは言葉が通じない。

「酷い人……!」

「酷い? 酷いの、そっちだろ」

「はぁ?」

「ぺーからてちを奪おうだなんて、ぺー悲しむだろ。あんたのやろうとしていることは、ねると一緒じゃん!」

 渡辺が悲しむ。考えたことは、なかった。そもそも、彼女とは付き合いが深いわけでもない。罪悪感を感じないわけじゃないが、渡辺は平手には相応しくない。認めない。
 しかし、ねると同類にされるのはしゃくだ。

「つか、ずみこってさ。自分さえ良ければ周りなんてどうでもいいって思ってそうなんだけど。占いでもそんな感じじゃなかったっけ?」

 どうやら私は、志田の琴線に触れてしまったらしい。こいつは無表情を崩さないまま、怒りの色を滲ませた口調で続ける。目は私を睨めつけているままだ。

(黙れ、エロ女)

 それでも言い返すことができない。
 馬鹿のくせに。人に興味なさそうな振りしといて、見透かされているのがむかついた。

「てちと私さえよければあとはどうでもいい、って思ってんのミエミエ」

 核心を突かれた私はカッと逆上した。
 私は、矛盾していた。
 女同士特有の馴れ合いが苦手でしょうがなかったのに、共感を示すようなそぶりも見せず、ストレートに言うこいつの態度に、どんどんフラストレーションが溜まっていく。

「もう一度、言う。てちは、無理。諦めな」

 認めたくない事実を突きつけられたような気がして、たまらず涙をポロポロと漏らした。単に辛かった。

「あーもうっ! ったく、なんなんだよぉ……」

 どうすればよかったんだ、と頭をくしゃくしゃに掻きまぜると、ティッシュ箱から何枚か抜き取って、私の涙を拭いた。
 私は素直に拭かれるほど、可愛くはない。ひねくれた少年みたいに、こいつを突き飛ばす。
 志田は数歩後ずさると、しゅんと肩を落とした。

「ずみこ。そこまで、てちにこだわる理由はなんなの? 本気で好きなん?」

 恋の作法を知らない私にとって、それがむしろ知りたいくらいだった。自分でもわからない。どうして、平手じゃなきゃ駄目なのか。

「なんか……私からしたら、てちに相応しい自分に酔ってるっつうか。執着しすぎて、ちょっと怖い」

初恋を手放すのが怖い。

 自分の中で、平手にしがみつく正体がふと浮かんだ。
 初めての好き。初めての恋。初めてのときめき。
 全てが初めての、平手に捧げたかった。本当を言うと、平手の全ても私の物にしたかった。
 笑顔の平手がどんどん遠くなっていった。また、失恋した時の熱い涙が一筋頰をつたわる。
 その時。私は、志田が漏らした呟きを聞き逃さなかった。

まあ、私もだけどさ––––。

 志田の切なそうな横顔が、デスクの上のタツノオトシゴのネックレスに向けている。その顔に何度か見覚えがあった。

 平手と渡辺がいちゃついていた時。
 寂しそうに見ていたのは、私だけではなかった。もう一人、志田もそんな顔をしていた。

 夏の記憶がフラッシュバックする。

ブチッ!

  私の手から乱暴に取り上げられたネックレスが、目の前で引き千切られる。宙に弾けるチェーンと、パールと、星のパーツと、イルカのオブジェクト––––。

 間違いない。平手と渡辺のと同じデザインだった。もしかして……。

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